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阪神淡路大震災――死ぬって、こういうことかと思った日

※この記事には、震災体験やPTSDについての記述があります。
読むことで心がつらくなる可能性がある方は、どうか無理をなさらずお読みください。

1995年1月17日、朝の5時46分。
私は兵庫県尼崎市、姉夫婦の家に居候していました。
その日は、今の主人と朝方4時くらいまでビリヤード場で遊んでいて、
帰って布団に入ったばかりでした。

数時間後、そのビリヤード場は1階がぺちゃんこに潰れ、
「1階が2階にめり込む」という言葉がぴったりの姿になりました。

もう少しいたら――私、確実にあそこにいた。

枕に押しつぶされ、「あ、私、死ぬんだ」

最初、大きな音がして、ドーンと地面が突き上げて、
ステレオコンポ(昔はとても大きかった)や焼肉プレートが、頭の上に落ちてきた。
地震なんてあまり来なかったので、小さな部屋の壁に物を積み上げてたんです。
居候でとても小さい部屋に住んでいたもので。

普段なら絶対しないのに、下向きに寝るのは苦手だったのに・・・
なぜかその日だけ、布団を頭からかぶってたんです。
それがなかったら、もうダメだったと思う。

布団の中で、枕に顔を押しつぶされて、
息ができなくて、
「あ、これ、私死ぬんだ」って思った。

「死ぬときって、ひとりなんだな」って、
その瞬間、すごく冷めた気持ちで、
不思議と怖さより、静かに諦める気持ちになったのを覚えてます。


部屋の中は、ブランデーの匂いと卵と食器の散乱

阪神大震災の惨状の写真
倒壊した岩屋駅付近の様子(1995年1月 阪神淡路大震災) 出典:© 神戸市/Wikimedia Commons(CC BY 2.1 JP)

揺れが収まったあと、部屋の中はめちゃくちゃ。
冷蔵庫から卵が飛び出して床に散らばり、
食器棚の皿は全部割れて、
割れたブランデーの瓶の香りが、部屋中に広がって。

私、何が起きたのか分からなくて、
とりあえず毛布を抱えて外に出た。
避難所?炊き出し?そんな情報、何も知らなかった。
ただ、家の外に出て、寒い夜明けをぼんやり見てた。


阪神淡路大震災時の写真
倒壊した阪神高速道路・トポス付近(1995年1月 阪神淡路大震災) 出典:© 松岡明芳/Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)

顔を見るまでの長い不安な時間

阪神淡路大震災 体験談として忘れられないのは、あの揺れの直後です。
地震が起きた瞬間、「ああ、死ぬんだ」と思い、部屋の惨状を目の当たりにしました。
家具は倒れ、食器は割れ、足の踏み場もない状態。
そして――今の主人と連絡を取ろうとしましたが、当時使っていたポケベルは地震の影響でつながらなかったと記憶しています。

当時の連絡手段とその限界

そのころは、まだ一緒に住んでいませんでした。
だからこそ、安否がわからない時間は不安で仕方がなかったのです。
今のようにスマホでLINEや電話ができる時代ではなく、公衆電話でしか確実な連絡が取れませんでした。
しかし、公衆電話も長蛇の列で、使える電話機を探すのにも時間がかかりました。
しかも停電や故障、コイン詰まりで使えない電話も多く、つながるまでにかなりの時間が必要でした。


📱 当時のモバイル通信事情

  • 携帯電話(ショルダーフォン)
    肩から掛けるカバン型で重さ約3kg。連続通話は1時間程度、月額料金は2万円近くと高額で、ビジネス用途が中心。震災時は基地局の倒壊や通話規制により、つながらないことが多かった。
  • PHS(簡易型携帯電話)
    本格的なサービス開始は震災の半年後。アンテナ設置が不十分で、震災当時はほぼ利用できなかった。
  • ポケベル
    数字を送信し、それを数字のまま読むか、数字を「語呂合わせ」に変えて意味を伝える通信機器。送れるのは短い数字だけで、返信は公衆電話や固定電話から行う必要があった。地震時は中継局の被害や電力障害でつながらないことが多かった。

バイクで割れた道路を越えてきてくれた

一方で、電車は完全に止まっており、車も通れない道路が多くありました。
そんな中、主人は地面が割れ、デコボコになった道路をバイクで飛ばすようにして来てくれたのです。
そして顔を見た瞬間、一気に緊張がほどけ、「生きている」とやっと実感できました。


阪神淡路大震災当時と今の通信手段の違い

とはいえ、今の時代でも大地震が起きれば通信が途絶える可能性はあります。
現在のスマートフォンは災害用伝言板やSNS、位置情報共有などの便利な機能がありますが、基地局の被害や通信の混雑があれば、やはりつながらなくなります。
阪神淡路大震災 体験談から学べるのは、「通信手段は一つに頼らない」ということです。
公衆電話の位置をあらかじめ確認しておく、災害時モードやモバイルバッテリーを備えるなど、日ごろから準備しておくことが大切です。

大阪は普通の生活してた

通勤時、他の地域では普通の暮らしをしていて震災にあった人は断水などで水を買って帰るイラスト

尼崎では水道が1か月も止まって、
姉夫婦は小さい子どもを連れて、知り合いの家まで風呂を借りに行ってた。
私は風呂に入れるところが無くて四苦八苦。公衆浴場を探したり、今だったらスーパー銭湯?っていうような健康ランドが開いていると聞き入りに行ったものです。
私は大阪に仕事に行き、帰りに何本も水を買って帰った。

でもね、大阪は普通の生活をしてたんです。
同じ関西で、こんなにも世界が違うんだって、
あのとき強烈に思った。


小さな揺れでも、今も体がこわばる

ちょっとした地震の揺れでも体がおかしくなっている女性のイラスト

今でも、小さな地震が来ると、
心臓がドキドキして、体が硬くなって、
涙が出そうになる。

「もう大丈夫」とは思えない。
心のどこかで、あの日の感覚がずっと生きてる。

たぶんこれ、PTSDとか、トラウマって呼ばれるものなんだと思う。
でも誰にも言えなくて、ただ胸の中にそっとしまってきた。


最後に伝えたいこと

私は避難所には行ってないし、ボランティアの炊き出しをもらった記憶もない。
でも命を守った瞬間があった。
「布団をかぶってた」「たまたま家に帰ってた」
それだけで、生き残った。

生きている今だからこそ、
あのときのことをちゃんと書き残しておきたい。
いつか誰かが読むかもしれない。
そして、自分自身の心にも、少しでもケリをつけられるように。

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🌸著者の一言

ホントに、生きてるって奇跡

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